タイムリープと秋の空。

timeleap.netで記事を書いていた沙耶の避難所です。タイムリープの方法や関係する話を書きます。

世界五分前仮説の言いたいこと

こんにちは、沙耶です。

聖書には、最初の人間アダムとイブの世代から歴史学的に事実であると考えられている人物の世代までの家系が記されています。つまり、神が何年前に世界を作ったかが分かります。それによると神はおよそ6000年前に世界を作った計算になるのですが、これはほかの事実と矛盾します。例えばマヤ文明は1万年前に始まりました。37億年前の化石が発見されていますし、天体の観測から宇宙は138億年前に誕生したと考えられています。しかしもし聖書に間違いはないというキリスト教徒の肩を持つなら、これらの6000年以上前の世界が存在する根拠はどうやって生まれたのでしょうか。今回は、世界が始まる前についての仮説を紹介したいと思います。

物体を真上に投げたときを想像してください。地球上である限り、物体はどこかのタイミングで動きを止め、下向きに移動し始めます。この物体が折り返すタイミングから最初に投げたときの速さを予報することができます。早く投げれば上まで飛ばすことができますよね。しかしそれは地上にいる人が投げたときの話で、ビルの上や地下から投げた可能性がある場合はその限りではありません。地上から速くなげた時と2階から遅く投げた時で見分けがつかない場合があります。時計を想像するとそれは一目瞭然です。アナログ時計は12時間ごとに同じ位置に針が来るので、「いつから動いているか」というのは予想することができません。この世の全てのものは「いつから動いているか」が分からないのです。これに目をつけた19世紀の神学者フィリップ・ヘンリー・ゴスは、「6000年前から世界は始まっていて、その時点で既に化石や古代文明の遺跡などが埋められていた」と考えました。科学と聖書を統合するのに相応しい考え方ではありましたが、当時の科学者からはもちろん、聖書側である神学者からも批判を浴びました。これによってゴスは神学から離れてしまいました。

この議論を再び表に出したのは、20世紀の哲学者バートランド・ラッセルです。論理学者・数学者としても有名で、「ラッセルのパラドックス」を知っているのなら、そのラッセルは彼のことです。ラッセルはゴスの仮説を宗教から切り離し、「世界が5分前に生まれたということを否定することができない」という問題を新たに提唱しました。これが世界五分前仮説です。もちろん6000年でも5分でも何秒でもいいですが、記憶や記録にある過去が実際に存在するとは限らないという主張になります。この話を見て「くだらない」と思うかもしれません。もちろん過去があろうがなかろうがこれから先の人生が変わるわけではないのでくだらないかもしれません。しかし、それは実際に過去があるかないかという「物理的に何があるか」が重要なのではなく、過去に何かあった記憶があるという心理的に何があるか」が重要になることの裏返しなのです。

考えてみれば、私たち人間は物体を感覚器官を通してのみ知覚することができます。逆に言えば、私たちが近くしているのは物体そのものではなく、知覚だけです。つまり知覚が自我を含めた世界の全てであるというのです。この考え方の哲学を現象主義と言い、ラッセルもこの現象主義の立場から世界五分前仮説を記しています。そしてこの考え方が私がタイムリープできるようになった1つの大きな要因であると考えています。

自己暗示の3つの技術

こんにちは、沙耶です。

私は催眠を使ってタイムリープしたことは以前お話しました。自己暗示はかつてソ連の宇宙飛行士のメンタルトレーニングとして研究されていて、現在ではアスリートのメンタルトレーニングとしても利用されています。その際、主に使われる3つの方法があります。今回は自己暗示の方法を紹介したいと思います。

1つ目は呼吸法です。一般的に「腹式呼吸」と呼ばれる方法で、息を吸ったときにお腹が膨らむような方法で呼吸をします。数時間や吐く時間を決めることがよくありますが、「鼻から素早く吸って、口からゆっくり吐く」というイメージです。これを続けることでリラックスすることができるので、被暗示性を高めるために自己暗示の最初にするのがおすすめです。

2つ目は漸進的筋弛緩法です。自己暗示にはリラックスすることが重要になりますが、「力を抜こう」と思っても意識的にはなかなか力を抜くことはできません。そこで、力を抜きたい部位に先に力を入れてから力を一気に抜くことで全身の力を抜くという方法を使います。まず右腕、次に左腕、右足、左脚、というように部分ごとに分けて脱力させるといいと思います。

3つ目は自律訓練法です。ここでは暗示を入れていきます。まず「体が重たい」と唱え続けて、体が重くなるのを感じます。次に「体が暖かい」と唱え続けて体が暖かくなるのを感じます。終わるときはストレッチなどで体を伸ばして催眠を解きます。自律訓練法は練習が必要で、できるようになれば暗示にかかる感覚が掴むことができるようになります。地道に続けるのが大切ですね。

 

今にも通じる東洋哲学

こんにちは、沙耶です。

前回は、世界の区切り方について紹介しました。人間は言葉によって世界を区切っていますが、その区切り方は人によって違います。つまり、同じ言葉でもその意味は異なるというのです。もっと言えば、今自分が見ている世界はほかの人には見えず、ほかの人が見ている世界は自分には見ることができません。言葉については『シニフィアンシニフィエ』、感覚については『クオリア』を調べると詳しい説明が読めると思います。さて、西洋哲学では近代になってから現れた「真理は人によって異なる」という考え方ですが、東洋哲学では紀元前からこの考え方が起こっていました。今回はそんな東洋哲学について紹介したいと思います。

インドには古代から「カースト」と呼ばれる身分制度があります。カーストは日本の士農工商とは違い、宗教的な意味合いがあります。バラモン教では、「現世の業(カルマ)によって転生した後の人生が決まる」という考え方があります。つまり身分が高い人は前世で徳を積んでいるから身分が高いのであり、身分が低いのは前世で悪いことをしたから身分が低いということになっています。もちろんこの考え方を認めなければ異教徒なので、カーストの最底辺として弾圧されることになります。しかし、どの身分であっても生老病死という苦難を避けることはできません。しかも何度も生まれ変わり永遠に苦難を受けなければならないというのは、耐え難い状況です。このような問題の中からインド哲学が生まれました。

まず、この世のものに区別がないという近世西洋哲学での発見が古代インドですでに起こっていました。結果には何か原因があるという思想から「生まれつき悪い環境にあるのは生まれる前に悪いことをしたからだ」という発想になるくらいには因果論が浸透していたので、物理学の物理法則を知らなくとも何かしら法則(ダルマ)があることを理解していました。そしてこの世の全ては法則によって動いており自分自身(アーリマン)も例外ではないことを理解すれば、自分自身を含め世界は区切りのない1つのものであり、そこに輪廻も業もありません。この考え方は中国でも独立して生まれており、これが中国で仏教研究が盛んになった理由の一つでもあります。

現在の日本では科学の考え方が受け入れられているので、人間自体も物理法則などの法則に縛られていると言っても変な目では見られないと思います。その一方で、自分には自由意志があると言っても変ではありません。つまり仏教的な考え方があるように見えて、それ以外の矛盾する考え方も同時に持っているのです。この日本人の信仰の仕方については別の記事で紹介したいと思います。

作者の気持ちを述べられない。

こんにちは、沙耶です。

インサイダーゲームというボードゲームがあります。細かいルールはたくさんありますが、基本的には親が知っているお題を「yes」か「no」で答えられる質問をしながら当てていくというゲームです。もしこのお題が100までの数字だったら、最短で答えを知る方法があります。「50以上か」「75以上か」「88以上か」と少しずつ範囲を狭めていく二分法という方法を使えばいいのです。ではこのインサイダーゲームのようにこの世の全てがお題だとしたら、どうすれば最短で答えを知ることができるでしょうか。今回はそんな言葉による世界の区切り方についての哲学を紹介したいと思います。

まず、言葉にも種類があります。例えば日本語と英語では区切り方が違います。日本語では「マグロ」「カツオ」と分けて呼んでいても、英語では両方とも「tuna」です。逆に英語では「rat」「mouse」と区別しても、日本語では「ネズミ」になります。「かわいい」は「pretty」だけでなく「cute」でもありますし、「pretty」は「かわいい」だけでなく「可憐」でもあるのです。区切り方が違うと、その言語を使っていない人にはわからない概念が生まれます。prettyを完璧に日本語に翻訳することはできず、ニュアンスを伝える他ないのです。では日本語を使っている人同士なら完全に通じ合えるかと考えると、そうでもありません。赤ん坊が言葉を覚えるとき、その意味を完全に理解してから使っているわけではありません。そして完全に理解してから使う言葉などないうちに日本語の文章を話すようになり、大人になります。考えてみれば、私達日本語話者が完全に同じ定義で日本語を使っているか確かめる術はありません。「子供、花柄の洋服、キラキラのネイルに共通する性質」は自分が意図して使っている「かわいい」だけではなく、他の誰かが「かわいい」と呼んでいるまだ自分の知らない概念もあるかもしれません。

共通の認識が得られないのは言葉に限りません。例えば私はこの文章を黒い字で書いていますが、これを読んでいる読者にも(環境が合えば)黒い字に見えると思います。しかし、この黒が同じものであるとは限りません。例えば私が黒と白が逆に見える体質だったとします。しかし、私は生まれた時から白に見えるものを『黒』と、黒に見えるものを『白』と教わってきたはずです。なので私の視覚が特殊であっても、黒いものを黒と、白いものを白と言うはずです。これは色に限らずあらゆる感覚に言えることで、言葉の上で通じあっているように見えても、同じ世界を認識しているとは限らないのです

逆に言えば、この世界を認識しているのは自分自身だけということになります。もし自分自身の認識が変わってしまったら、そのままこの世界が変わったことと区別できません。この辺りの考察から、引き寄せの法則と通じるものが出てくるかもしれません。

魔術はどこから始まった?

こんにちは、沙耶です。

ファンタジーの世界では、魔法や魔術といった概念が出てきます。三角の帽子に黒いマントを身につけ、藁のほうきで空を飛ぶというイメージはあるかもしれません。また、杖や魔法陣を使った魔術や火・水・土・気という元素について語るところを描いた作品もありますね。しかし、これらの魔法や魔術は一体どこから始まったのでしょうか。

西洋において、科学の始まりは哲学の始まり、つまり古代ギリシャ哲学から始まります。しかし、ローマ帝国がヨーロッパの大部分を支配しキリスト教を国教と定めると、キリスト教の考え方がギリシャ哲学の考え方と結びつき新たな思想が生まれました。キリスト教と結びついたギリシャ哲学の1つが新プラトン主義です。新プラトン主義は「一者」と呼ばれる最初のものから世界のあらゆるものが流出したという考え方であり、一者をキリスト教唯一神と結び付けられて「聖書に書かれていない隠された真実」という神秘主義の考え方として広まっていきます。この考え方を示すのに使われるセフィロトの樹は見たことがあるかもしれません。セフィロトの樹は神から世界の要素が流出する様子を表していて、数字から世界を紐解く数秘術やカードで紐解くタロットなどと関連付けて考えられます。

さて、1つのものから世界のあらゆる要素が生まれるという考え方は東洋には古代からある考え方です。例えば仏教の教祖であるゴーダマ・ブッダは世界を認識するものとしての自分(アートマン)と世界全て(ブラフマン)はもともと一つであると考えました。中国の道教の考え方でも、世界の対立する2つの概念(陰陽)はもともと1つのものであると考えます。これらの東洋哲学はブラヴァツキー夫人により西洋に持ち込まれ神智学となり、セフィロトの樹やタロットなどと共に現代の魔術結社「黄金の夜明け団」の教義になっています。

アファメーションと催眠

こんにちは、沙耶です。

以前私は催眠を使ってタイムリープしたと書きましたが、そのことについて『アファメーションと同じようなものか』という質問が何人かから寄せられました。私自身アファメーションについて詳しく知らないので調べてみたところ、アファメーション引き寄せの法則について記されている「ザ・シークレット」という本から広まり、日本では催眠術師の苫米地英人氏が紹介しているようです。そこで今回は「ザ・シークレット」の思想と催眠の関係を紹介したいと思います。

催眠の始まりはフランツ・アントン・メスメルという18世紀の医者から始まります。メスメルは磁石を患者に当てることで病気を治療することに成功し、人間の内部の磁気を整えることで病気を治すことができると考えました。18世紀というと電池が発明される前の時代で、電気や磁気について深い研究がされる前です。なのでこのような発想になること自体は仕方がない部分もありますが、当時の学者からも批判を浴びています。後にメスメルが行ったのは今で言う催眠術であることがわかりますが、その後もメスメルの治療法メスメリズムを使う人が現れます。中でも有名なのは19世紀の心理療法家のフィニアス・クインビーです。クインビーは助手にメスメリズムを施すことで間違った治療薬であっても病気が治ることを示し(今で言うプラシーボ効果)、「病気の原因は間違った信仰である」としました。つまり、神を信じ救われることを信じていれば病気は治ると考えたのです。

メスメリズムが民間に広まった頃に、スピリチュアルの世界ではキリスト教での「信じるものは救われる」という考え方と、アジアから取り入れた仏教の「輪廻転生」の考え方が結びつき、「輪廻を繰り返すことで少しずつ神に近づく」という思想が生まれます。この思想はブラヴァツキー夫人の神智学協会から始まり、かつての魔術的なフリーメイソンナチスなどの反ユダヤ思想、現代日本オウム真理教幸福の科学に至るまで広く理解されている思想です。このことについては大田俊寛氏の『現代オカルトの根源』に書かれているので読んでみてください。

メスメリズムとこのスピリチュアル的思想は「ザ・シークレット」に書かれているニューエイジという思想に繋がります。強く思うことで夢を実現することができ、その方法として催眠を使うという思想はこのような歴史の上にできあがりました。しかし、これだけではキリスト教徒でない私達には信じることは難しいように思います。この欧米で育った思想に変わる私達でも納得できる説明がタイムリープには必要です。

相対性理論は関係ない

こんにちは、沙耶です。

過去に戻ることはできないと主張している人の中には、「相対性理論と矛盾するから」という理由付けをする人がいます。しかし、そう主張する人のほとんど(全員ではないと思います)は相対性理論についてそれほど理解していないのではないかと思います。今回は相対性理論と時間の関係を紹介したいと思います。

そもそも、『相対性』とはなんのことでしょうか。まずはじめに、電車に乗っているところを想像してください。電車が走っているとき、周りの風景は電車と同じ速さで反対方向に動いて見えますよね。そして他の電車とすれ違うとき、その電車の速さは自分が乗っている電車の速さの分だけ速く見えます。このように、自分が動いているときは動いていないときに比べて自分の速度分だけ速度が変わります。これを相対速度と言います。しかし、光だけは相対速度というものがありません。自分がどんな速度で動いていても、光は一定の速さで動きます。この矛盾を解決しようとしたのが相対性理論です。

これまでの常識では考えられない光速一定という原理が現れたので、相対性理論はそれまでの常識とは異なる現象を示します。例えば動いている物体は縮み、時間の流れが遅くなります。もちろん光の速さに準じるような速さで動かなければわからないような小さな差ですが、これによって光が一定の速さで進むことも説明できるようになりました。

ここで、相対性理論が示す『動いている物体は時間の流れが遅くなる』という性質に着目してみます。時間の流れが遅くなるというのは、自分が1秒経過する間に周りが経過する時間が短くなるということです。限界まで遅くなれば自分の時間の1秒が周りの時間の0秒、つまり時間が止まって自分だけ動けるような状態ですね。もしこの限界を越えて自分の1秒が周りの-1秒になれば、時間を遡ることになるので過去に行くことになります。これで過去へ行くことができるように思えます。しかし、自分の1秒が周りの0秒になるような状態で既に自分が光速で動いている必要があり、相対性理論によれば光速を越えることはできません。また、相対性理論上での座標変換を表すローレンツ変換の式を見ると分かるように、光速を超えたとしても自分の1秒が周りの-1秒になるようなことはありません。つまり、この方法で過去へ行くことはできません。

ここで重要なのは、飽くまでもこの方法で不可能なだけだということです。別の方法を探るのであれば相対性理論と関係ない場合が出てきます。その場合まで否定することはできません。相対性理論を根拠として否定する意見は、この議論を越えたものであるか否か確認する必要があります。