タイムリープと秋の空。

timeleap.netで記事を書いていた沙耶の避難所です。タイムリープの方法や関係する話を書きます。

『自分』を過去に送る

こんにちは、沙耶です。

タイムリープという言葉は日本でのみ一般的に使われる言葉で、筒井康隆の「時をかける少女」という小説で使われたことがきっかけで広まったと言われています。時をかける少女での時間移動は、過去に戻っても過去の自分と会うことはありません。つまり時間を巻き戻しているんです。しかし、タイムリープした人の記憶だけは保持されています。この現象が実際に起こるとき、何が過去に戻ったと言えるのでしょうか。

記憶の情報だけが過去に戻った場合、これもタイムリープと言えると思います。ゲーム「steins;gate」に登場するタイムリープマシンは記憶を電子情報として取り出す技術とメールを過去へ送る技術を合わせたものなので、実質は記憶を過去へ送ったことになります。しかし、かつて日本の掲示板に現れた初代リーパー氏300年リーパー氏といったタイムリーパーはこれらの技術を発明したわけではありません。つまり、記憶の情報を取り出すことなくタイムリープすることが可能ではないかと考えられます。フィクションの世界や掲示板に現れた人から得られることもありますが、哲学の世界ではさらに深い考察をしている哲学者が多くいます。全部紹介しようとするときりがないので、今回は西洋の哲学者エルンスト・マッハと東洋の哲学者荘子の哲学を紹介したいと思います。

マッハと言われて思い浮かべるのは「マッハ2」などのように使われる速さの単位です。この単位は音速をマッハ1としたときの速さのことですが、エルンスト・マッハは音速を越えるときに衝撃波を生むことを示した人物であることから名づけられました。このようにマッハは物理学に大きな影響を与えた人物ですが、哲学者としても大きな影響を与えています。例えばマッハが書いた『感覚の分析』という本では、この世の全てのものを感覚という単位で示すことで物理学と心理学の隙間を埋めることができると記されています。物理学を研究するために実験をしますが、その実験の結果は必ず自分の感覚器官を通さないといけないからです。光の屈折の実験で、水の入ったコップの中にペンを入れるとペンが曲がったように見えますが、実際にペンを触ってみるとペンはまっすぐのままという実験があります。しかしマッハは触った結果を真実だとする考え方を批判し、「視覚的に曲がり触覚的に曲がっていないと言うべきだ」と言いました。ペンを水から取り出しても、水の中でペンを触ってもペンはまっすぐですが、だからと言って「ペンが曲がって見えるのは錯覚だ」と言うことはできないのです。

そんなマッハの考え方から見れば、夢と現実を見分ける方法はありません。夢とは「寝ている間に見る幻覚」ですが、夢から覚めて夢の中の出来事が影響を与えていないことが分かっても、夢の感覚を受けていたことは事実です。また、夢と現実を区別できないと考えたのはマッハだけではありません。中国の思想家である荘子は「胡蝶の夢」という例え話を使って夢と現実の区別について語っています。

昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。

(以前、荘周(荘子)は夢の中で胡蝶になった。ひらひらと飛んでいることが楽しくて、自分が荘周であることは忘れていた。ふと目を覚ますと、自分は荘周だった。しかし、荘周が夢の中で胡蝶になっていたのか、それとも胡蝶が今荘周になった夢を見ているのか、自分にはわからない。)

荘子はこの話から「荘子と胡蝶の間には区別があるはずだが、自分であるということは変わらない」と結論づけています。荘子の思想は「本来は全てのものに区別などなく、区別は人間が作ったもの」というものです。マッハが「全てを感覚基準にして研究しよう」と考えたことに対して荘子は「全てに区別はなく、自然のままに生きればいい」という考えなので進む方向は真逆かもしれませんが、その根本は似通っているように見えます。そして私は、タイムリープで過去に送る『自分』とは何かという問いの最初の1歩になる考え方になると考えています。